ゴルギアスとの会話の中でソクラテスは知識には真偽がないが、信念には真偽がある点で知識と信念は別物であるとし、言論術とは知識を教えるのではなく、信じ込ませること、つまり説得を作り出すものしている。かくいう説得には、知識をもたらすものと知識を伴わない信念のみをもたらすものがある。弁論術は後者の説得を指すのである。また、ソクラテスは弁論術をある種の喜びや、快楽を作り出すことについての経験と述べ、技術ではなく迎合(コラケイアー)の一部門としている。そもそも、迎合というのは技術に値するような仕事ではないが、しかし、タイミングを見るのに敏感で、押しが強く、人々の応対に生来素晴らしい腕前を持っているような精神の持ち主が行う仕事としている。その例として料理法、化粧法、ソフィストの術、弁論術を挙げている。それらはそれぞれ身体の為の技術である医術、体育術、魂の為の技術である(政治術)立法、司法の一部門とされている。迎合の術は最善を無視し、快さを追及している醜いものであるとソクラテスは述べている。
弁論術の性質については、どのような事柄について論じるのであろうと、物事を知らない大衆の前でなら、弁論の心得、すなわち弁論の能力のある者が、どんな専門家に比べても、説得力すなわち信じ込ませる力において劣ることはないと主張している。しかし、これにはどのような人にも通用するものではないし、他の術を侵害してはいけないとの留保がついている。
弁論術について一通り述べたあと、ソクラテスはポロスとの会話の中で善と害や不幸や幸福、正義や不正について言及し始める。
ポロスとの会話の中で、美しいことが善で、醜いことが悪すなわち苦痛か害悪のどちらかかまたは両方であり、また、幸福なのは善き人で、不幸であるのは不正で邪悪な人であるということを認識しあった。そこで、ポロスが一国の中で自分の思惑通りに何でも行える自由を幸せであることや考えや病気や貧乏や不正が悪であるということと主張すると、ソクラテスは人に不正を行うことは最大の害悪であり、不正を受けるよりも悪であるということを主張する。なぜなら、不正を行っていながらも裁きや罰を受けないことは不幸であり、罪を償ったほうがまだ不幸の度合いは低いからである。また、後のカルクリレスとの会話の中で、極悪非道は権力者から生まれるとし、その理由は自由があることによって不正ばかりしてしまうからであるという考えを述べており、権力者は悪であり、不幸であるという考えを示している。そして、ポロスの証人とあざ笑いという2つの手段を使った反駁方法を痛烈に批判する。結局ポロスはなにもいえなくなり、場面が変わり、今度はカルクリレスとの会話が始まる。
カルクリレスはソクラテスのやり方を真理の追求ではなく、相手が思っていることを言わせなくしている、すなわち、自然と法律という、相反するものを交えて質問して、相手を惑わせ、結局矛盾したことを話させてしまい相手を丸め込んでしまっていると批判をする。また、ソクラテスがしている哲学を若者がやるものであり、必要以上に関わっていると人のさまざまなあり方について心得のない人になってしまう、つまりソクラテスがそのようであると批判する。
それからカルクリレスは正しく生きようとする者は自分自身の欲望を抑えることなく、放置して、思慮分別を持って欲望の充足を図る者であるとした。なぜならば、贅沢と放埓と自由とが背後の力さえしっかりしておけば、それこそが人間性の徳(卓越性)であり、幸福であると考えていたからである。大衆は思い通りに欲望の充足ができないから非難するのであるとした。しかし、そこでもソクラテスは痛烈な批判をする。カルクリレスの主張はそもそも、快と善を混同している。ソクラテスによれば、善と快は別物であり、快は悪であるものと善であるものを含んでいるとしている。よって欲望を充足することは快ではあるが、必ずしも善であるとは言えず、善でなければ幸福でもないという考えを示す。そこから前述した、迎合の話に戻る。
迎合とは快を求めることであるとソクラテスは言う。つまり、弁論術は善を求めていないことがここで明らかになる。そこでそれでは弁論術はどうあるべきか、善とは何かという話題になっていく。
人は魂と身体に分かれる。それぞれ規律と秩序が生まれている状態を法(節制の徳)、健康(身体上の徳)として、弁論家は人々の魂に正義の徳つまり美徳が生まれて不正が取り払われるようにすべきであるとする。なぜなら、思慮節度のある魂は善い魂で、勇気があり、敬虔な人であり、それが幸せな人であるからである。反対に悪徳を持っていて、戦術した通り、不正を行うことは不幸なのである。回りくどい言い方をしているが、要するに弁論術は不正を行わせないようにするための、不正告発するためのものであるべきなのであると主張している。
最後には、ソクラテスが延々と話し続ける。最終的に死ぬことによって人は魂と身体に分離し、魂が治る見込みのないほど悪であるものはカルタロスへいき、不正を罰せられ、改心した者は幸福者の島へいけるという結論に至っている。だから、不正をせず善い人であることに越したことはないのだが、不正をしてしまっても、正しい人になろうとすることによって幸福になれるそのために、弁論術を正しく使うことが必要であるとソクラテスは述べている。
考察
プラトンがカイレポン、カルリクレス、ゴルギアスとの会話を通して何を見出したかったのか、始めはよくわからなかった。
読む以前から人の名前である「ゴルギアス」という本の題名にも疑問があったが、読んでますます疑問は大きくなった。さらに副題として「弁論術について」とついていることに対しても疑問符をうったが、弁論術について確かに述べてはいるが、これは一つの方法として、弁論術について述べることを媒介にして、徳や善について、人間について述べていると考えることで落ち着いた。同じように考えると「ゴルギアス」という本の題名も、話し相手を媒介にして、追究していく、ということを具体的な人名を用いることで表しているのではないかと捉えることができる。
ソクラテスは弁論術を迎合であるといったが、迎合という単語は現代政治にもよく使われているように思う。国民の善を求めるのではなく、その場しのぎの名声や立場や人気のため、つまり快のために政策を掲げ、実行している政治家はまさに迎合であるといえるだろう。
弁論術という一種の迎合の具体例を挙げ、多くの民衆をカルクレスの発言を通して体現化させることによって迎合、人間の弱さ、徳の無さについて、ソクラテス、プラトンは説こうとしていたのではないだろうか。それが現代にもあてはまるというのはソクラテス・プラトンが本質を見抜いていたと考えていいだろう。
また、カルリクレスが批判したソクラテスのやり方はまさに裁判における検察官を髣髴させる。専門的知識を持っているか否かという点では留保がつくが、次元の違う話を交互にすることにより、相手を混乱させ、一見混乱させるようでいて、本当のことを話させてしまうという方法である。これが正しいのか、不正なのかどうかは疑問が残るが、有効であることには違いはないと考えられる。ソクラテスが弁論術を批判しつつも、弁論術そのものを否定しなかった所以も、本人の自覚は別として、ここにあるように感じる。なぜなら、彼は弁論術を用いて、大勢の前ではないにせよある種の説得をさせているからである。